重力と歴史
1 新宿ホワイトハウス
一九五七年、磯崎新は同級生であった赤瀬川隼彦(後の直木賞作家・赤瀬川隼)の結婚式にて、同席した吉村益信から住居の設計を依頼される。式のあいまのトイレにて、「金はないけどバラックでいいからアトリエをつくってくれ」[1]。当時東京大学丹下健三研究室に所属していた二十六歳の磯崎は、実施設計の経験こそなかったものの、ル・コルビュジエの「シトロアン住宅」(1922年)等を参照しつつ、短期間で住居兼アトリエを構想する。図面を託された吉村は、自ら大工を探し出し、自身も施工に参加して、「イソさん(磯崎新)の設計をきちんと実現しよう」[2]と、同年秋、磯崎の案を実現する。敷地は戦後の焼け野原からいち早く宅地化が進んだ新宿区百人町である。茶色っぽいバラックばかりのなかで白いモルタル塗りの外壁が目立っていた。「ホワイトハウス」と銘打たれた。玄関を抜けるとすぐさま三間(約五・四五メートル)を一辺とした立方体状の吹き抜けに包まれる。アトリエであり、展示室でもあったこの空間に、一・五間の幅の二階建てのボリュームが付随する(一階は水回り、二階が寝室)。きわめて簡明な構成だ。と同時に、三間立方の白い部屋がバラックの風景に対峙するさまは異質であった。その後この住居兼アトリエは、家主である吉村を中心に篠原有司男・赤瀬川原平・荒川修作・風倉匠らによって1960年に結成された前衛芸術グループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」(通称ネオ・ダダ)の拠点となる。立方体空間では連日深夜になると大量の安ウイスキーを消費する酒宴が行われ、様々な展示やパフォーマンスも行われた。しかしほどなくして、吉村の渡米をきっかけに画家・宮田晨哉へと譲り渡され、それから半世紀ほどは耳目を集めることもなく過ぎていった。現存すら危ぶまれていたものの、2000年代に赤瀬川原平によって再発見され、2013年からはライブカフェとして運営がなされ、2019年にはアートコレクティブ「Chim↑Pom」のアトリエとなり、2021年からは会員制のアートスペース「WHITEHOUSE」[3]として運用されることになる。
磯崎自身、「まだそっくりのこっていたんだ。三間の立方体にしたいとは考えていたけど、五十年昔の記憶は白濁している。踏み込んでみると、天井高は三間そこそこある。みずから署名するほどの仕事とは考えなかった」[4]と語るくらいだから、この建物を磯崎のデビュー作とすることには異論もあるだろう(従来、磯崎のデビュー作は1960年の「大分県医師会館」とされていた)。新宿ホワイトハウスでは、極めて厳しい予算状況のなか、戦後の応急的な木軸モルタル塗りバラック建築の手法で建設する以外とりうる選択肢はなかった。だからこそ磯崎は、このプロジェクトをいわゆる「小住宅作品」として仕立てることは早々に諦める。作品、すなわち「署名するほどの仕事」ではなかった、と。せめてもの抵抗として残されたのは三間立方の空間である。作品であることを断念しながらも、立方体という建築的概念の具現化・物質化には成功する。むしろここでは逆説的に、白く抽象的な空間をバラックが梱包するという、きわめて実験的な試みが実現しているのだ。重要なことは、これが磯崎のデビュー作かどうかといったことよりも、厳しい条件のなかで磯崎が選び取った「立方体」という抵抗がなにものか、ということだろう。本稿では、筆者が新宿ホワイトハウスの改修に携わったことを起点に、この建物の特徴づけている「立方体」という幾何学的形象を辿ることで、磯崎の膨大な実践・言説を現代の建築家が引き継いでいくためのひとつの断面を取り出してみたい。
2 半世紀後の介入
筆者ら[5]は2021年の春と秋に、新宿ホワイトハウスの改修をおこなった。われわれはまず、上述したアートスペース「WHITEHOUSE」のオープンに際して、建物と塀の間にある幅1.5メートル×長さ8メートルの外構部分を対象に設計と施工を実施した。予算と工期の問題から、新宿ホワイトハウスに出入りしていた若手美術家と協働しつつ、セルフビルドで施工した。建物内部が展示室になる関係で、ほぼ機能してなかった前面の空地を人々が滞在・活動できる場所にする、ということが最たる目標だったのだが、早々に既存建物を構造的に頼ることが難しい状況が判明する。なにしろ内側の仕上げをはがしてみると、柱も梁も、一間半(約2.7メートル)のスパンでしか入っていない(ちなみに梁といっても梁せいがあるわけではなく、柱と同じ3寸5分の角材である)。架構をつくる部材は最小限で、開口部の脇にも柱が通っていない。離れた位置から屋根をみると、中央部がたわんでいる。どうしてまだ建っているのか不思議な状況だった。50年代の物資不足、あるいは少人数での施工による部材の取り回し等の条件からこうなったのだろうか。本当のところはわからないが、ともかく、立方体は歪んでいる。
下手に部分的に補強をして現状の力学的なバランスが崩れるのはまずいし、かといって建物を全面的に構造補強するのはあまりに大掛かりだ(そもそも初回打ち合わせから約六週間でリニューアルオープンまで漕ぎ着けなければいけないという、超短期間プロジェクトだった)。加えて前面の空地は幅がせまく、既存のオブジェクト(郵便ポストや室外機、樹木等)の位置を勘定すると、部材は不規則にしか配置できない。基礎の打設可能位置も限られている。悩んだあげく、限られた予算のなかで最低限必要な要素を洗い出し、それらの構造的な自立性を状況に応じて調整する、という方針を選択する[6]。外構に新たに追加した床やテーブル、扉や屋根といった諸要素は、構造的に自立していたり、外構に既にある樹木やブロック塀等の要素に依存していたりする。こうした場当たり的な解法こそが、各要素の形態と身体への働きかけ双方の固有性を生むと考えた。約半年後にWHITEHOUSEでおこなった個展「手入れ/Repair」では、三間立方の展示室の床板を一旦すべて取り外してから、床下の躯体を補強し、修繕・研磨した床板を取り付けるまでの一連の工程を、約二週間の会期を通して公開することにした。床下を見てみると、驚くべきことに、柱の一部が消失していた。敷地奥の樹木の根が基礎の立ち上がりを突き破って床下に侵入し既存躯体の一部を腐食させていたのだ。柱が魔法のように宙に浮いていた。戦々恐々としながら補強材を入れた。外した床板の裏には「アピトン縁甲板」と書かれていた。高い耐久性と耐水性をもつアピトンは、当時は住居に用いるのは一般的でなく、倉庫やトラックの荷台などで用いられる木材だった。おそらくアトリエということを鑑みて、吉村が引っ張ってきた大工が判断したのだと思われる。作業をしていると、図面を書いた磯崎以外の、この建物を立てた施主や大工の判断が見えてくる。
いずれの介入時も、新宿ホワイトハウスという分厚い歴史的文脈をいかに相手取るか、という問題に悩まされることになった。自分たちの専門が建築設計である以上、既存建物の設計が磯崎新であるという事実にどういった態度を取るのか、ということは、当然ながら意識せざるをえない。しかし、意外なほど、初回の改修の現場では磯崎のことをそれほど意識していなかった。自分が作業員になって労働をしているときにはなおさらだった。これがヒントになった。自分の身体が、あるときには設計者になり、あるときには作業員になる。これが、「いったん磯崎を忘れる」ためのひとつの形式的な方法だと思いついたのだった。だからこそ、二度目の介入では自らが改修行為の主体になることを強調する必要があった。基礎の打設のための型枠をつくったり、夜を徹して配筋作業をおこなったり、床板を解体したり、根太を打ったりしているとき、そこに磯崎はいなかった。目の前にあるのは常に、即物的な対象だった。立方体という(自然界にほとんど存在しない)かたちの力学的な不安定さは、むりやり木造で(かつほとんどセルフビルドで)つくるというプロセスによって助長されている。必然的に立方体は歪み、既存環境をフル活用した場当たり的な改修と、パフォーマティブな「手入れ」が要請されたのだった。
磯崎は1960年前後、新宿ホワイトハウスの周囲で行動をともにしたアーティストたちの仕事が「反芸術」と呼ばれたことと、「反建築」を思考・試行するアドルフ・ロースの仕事を類比させる[7]。白い立方体はバラックによって覆い隠され、都市空間に密かに埋め込まれた。磯崎の「反建築」は、忘れ去られていた彼の最初のプロジェクトからはじまっていた。同時に磯崎にとって新宿ホワイトハウスは、「作品化の断念」というトラウマ的な記憶でもあった。しかしこの断念によってこそ、磯崎が生涯追求した「デミウルゴス」という方法論を引き継ぐための手がかりが見えてくる。
3 立方体という問題構制
立方体は、このような意味で、強烈に存在し、支配し、限定し、圧迫し、固定し、不動のものとならねばなるまい。圧倒的で、強権的であるだろう。それは専制的であり、敵である。[……]この敵に亀裂をいれること。その透明性を打ち崩すこと。作業はそこから開始する。
「立方体──わが敵」[8]
そもそも磯崎にとって立方体は、木割りあるいは黄金比によって体系化されている日本と西欧の建築的な構成原理を停止させ、それによってもたらされる美的な判断基準を破綻させることを目論んだものだった。丹下研究室に身を置き、丹下モデュロールの運用を厳守しなければいけない強い抑圧状態のなかにいた磯崎は、立方体の運用を通して師・丹下健三の乗り越えを試みたわけだ。端的にそれは、建築に抗する「反建築」だった。三間立方を内包した「新宿ホワイトハウス」(1957年)、立方体のみで構成した「N邸」(1964年)、断面をすべて正方形にした「大分県立中央図書館」(1966年)等がこの時期の代表的なプロジェクトになるだろう。立方体を起点とする設計の方法論は後に「手法」(マニエラ)として理論化され、「群馬県立近代美術館」(1974年)にてその実践が完遂する。
方体は設計の当初、厚みも幅もない線だけで構成される等辺の立体たる「純粋形態」としてイメージされる。純粋形態が建築になるためには、いくつもの変換・手続きの必要性が生じる。たとえば立方体の枠を敷地に配置してみる。すると、枠が特定の場所を占有し重力の影響下にはいった瞬間に、抽象的な線材に具体的な名称がつき始める。イマジナリーな(厚みをもたない)垂直線は柱に、水平線は梁に、地上面の線は基礎または地中梁へと変形する。各箇所でまったくことなる力の流れが生じ、厚みは所々で最適化し変化していく。結果として、「建築は、完璧には純粋形態を保持できない。とりわけ、重力場において、かなりの質量をもった物体によって構成されるかぎり、そのズレは大きくひらいてしまう」[9]。立方体はいわば「仮想敵」としてプロジェクトに投げ込まれる。そして、純粋形態と具体的な建築躯体との間に生じる宿命的な差異を「圧縮」するための葛藤が、プロジェクトごとに内発する。磯崎は立方体好みを「偏愛」であると語る[10]。偏愛による判断はつまるところ、根拠不在の際に「選ぶ」とはどういうことか? という問いに繋がるだろう。「根拠なしに「選ぶ」ということは根源的な行為であって、それが最終的には決定的なものになる」[11]のである。
立方体をめぐる磯崎の言説と実践を真に受けるならば、われわれは差し当たり三つの問題に直面するだろう。まず、立方体とはなにか。次に、立方体はなぜ要請されるのか。そして、立方体の運用によって何が可能になるのか、である。第一の問題は、建築にとって「幾何学」とはなにものか、というより広範な問いへとわれわれを導くだろう。第二・第三の問題はそれぞれ、根拠や主題が不在の状況における「補助線」(仮設的な決定根拠)とそれを運用する主体性に関する問題として一般化することができる。立方体という問題構制を磯崎とは異なる道筋で思考・探索することで、立方体を偏愛した磯崎新という建築家像を相対化してみよう。さしあたり幾何学である。建築において幾何学は、たんなる形象の決定根拠でも、デザインの道具でもない。幾何学は極めて政治的な問題を内包しているのである。
4 幾何学の複数の起源
中世初期の神学者・百科全書家のイシドールスが620年代に著した『語源』には既に、ヘロドトスが幾何学の起源について残した有名な記述──幾何学はナイル川の氾濫によって掻き消えた土地の境界線を測量によって復元する必要性からエジプト人がはじめたものである──が紹介されている[12]。幾何学の起源に関するヘロドトスの著作に基づいたこうした説明は近年に至るまで繰り返し述べられている典型的なものだ。幾何学の起源たる精確な土地の測定技術がなぜ発生・発展したのか。端的にそれは、税務官吏と耕作者のあいだの「同意」を明確にするためだった、と。減税の仲介を担った縄張り師には、測定と作図の厳密な運用が要求されたわけだ[13]。
エジプトにしろ、メソポタミアにしろ、数学の発達初期の中心的な問題が、ある条件を満足する解となる「数値」の決定であったことは間違いない。それは測量に端を発する幾何においても例外でなかった。この段階において、金額を精確に分配することと、与えられた畑を精確に分割することのあいだに本質的な差異はない。重要なことはその算術的な解の精度であって、そこでの幾何学的実践はあくまで算術的な手順が応用される諸問題のひとつにすぎなかった。対してギリシアの数学は、エジプトの測量術とメソポタミアの算数術・代数学を引き継ぎ、 そこに論理構造の要素を組み込んだ点で大きく飛躍する。厳密な数学的推論の急進的な発展による公理主義の数学(紀元前四世紀のユークリッドとその同時代人の仕事)と、より正確な近似値を求めようとする算術的な数学は、はっきりと区別すべき数学のふたつの型である。通常、ギリシア数学というと前者のことを指すと思われるが、蒸気の圧力を研究したヘロンがいたように、バビロニア由来の算術的アプローチが潰えたというわけではなかった。ノイゲバウアーが指摘しているように、幾何学的な実践はそのすべてがユークリッド幾何学へと移行したのではなく、現代数学と連続するユークリッド由来の論証的な幾何学と、実用的近似計算を精密化する幾何学へと分化したと考えるべきだろう[14]。現代においても、数学分野では射影幾何学から位相幾何学へ、より「抽象的」な方向(数値や形態を捨象する方向)に進む推進力と、コンピューターなどを用いたより「具体的」な方向(より正確な近似値を求めようとする算術的=工学的な方向)に進む推進力の、その両方が存在している[15]。
証明を伴ったギリシア特有の幾何学のスタイルが成立したのは紀元前5世紀なかばのアテナイであったと考えられている[16]。こうした論証数学が発展した動機に関しては、無理数の発見が論理学上の大きな問題を生じさせたからというのが伝統的な見方である。無理数の発見は、幾何学的証明と算術的証明との関係における重大なパラドックスとなり、面積と体積を決定する際の体制を根本的に再考せざるをえない状況が生じた。こうした状況に対して、数学者はふたつの態度を取ることになる。ひとつは妥当な仮定のみからその他のものが演繹される体系は全面的に「正しい」という認識であり、もうひとつは、所与の実在は幾何学的対象であって、整数比はあくまで副次的なものだという認識である。実際、『原論』においてまずもって特徴的なのは、本書に「数値」が出てこない点だ。
ギリシアの理論的幾何学では、長さ、面積、体積などの幾何学量が数値によって表現されることはない。そして「平行四辺形」のような、図形を表す述語は、そのままでその図形の「面積」の意味でも用いられる。この言葉遣いは、「数(自然数)」と「量(幾何学)」とを峻別するギリシア数学独特の立場の一つの現れである。[17]
ギリシア数学に無理数という概念は登場しない。その代わり、例えば正方形の辺と対角線の比は「通約不可能」あるいは「非共測」(相互の比が整数比で表せないこと)と呼ばれる。両者の比は自然数では表現できない。通約不可能である。が、正方形の対角線を辺とした新たな正方形の面積がもとの正方形の倍ということは作図によって容易に証明できる。つまりわれわれが√2と呼ぶ数値の性質は幾何学的にはまったく矛盾なく表現できるのであって、通約可能かどうか(整数比をもつかどうか)は副次的な問題にすぎなかった、というわけである。無理数(通約不可能性)の発見がもたらしたのは数と幾何学の厳密な分離であり、無理数は代数的な数として主題化されることなく、幾何学によって処理-包摂された。この境位においては、いかなる線分もそれ単体では「非共測」ではなく、つねに他の線分との相互関係のなかで「共測」ないしは「非共測」という性質をもつことになる。この時点で幾何学と実用的近似計算との関係は完全に清算されており、「数値」は論証体系から捨象されてしまっている。逆に言えば、図形から寸法──経験的な世界における実用的な性質──を排除することによってこそ、『原論』にはじまる論証的な証明が確立したといえるだろう。
ギリシア数学の特異性を本質的に表している「数(自然数)」と「量(幾何学)」の分別は、測量術から寸法を取り除くという態度、すなわち「ぴんと張った縄」を「直線」とみなす態度をより厳密に推し進めた結果である。論証数学と正確な近似値を求めようとする算術的=工学的な数学の分化は、この自然数と幾何学の区別に端を発している。フッサールは『幾何学の起源』でまさにこの問題を主題とし、この抽象化のプロセスを「理念化」(Idealisierung)として位置づけた[18]。デリダによれば、「この理念化は、感性的理念性──たとえば、「円いもの」という形態論的類型──から、より上位の、絶対に客観的な、精密で、感性的ではない理念性、「類似した名でよばれる新しい種類」の形象である「円」を、生じさせる理念化である」[19]。日常生活におけるある種の必然性によって、たわまない線、なめらかな面などといった前-幾何学的な規定が漸進的に実施され(計測技術の萌芽とその厳密化)、その終局として寸法の捨象がおこなわれる。これが計測行為の延長としての幾何学図形から、論証的な幾何学が生まれた機序である[20]。
5 建築における幾何学の運用、その政治的側面
これまで確認したように、幾何学は経済的価値を与えるために土地を計測する行為から発展したものだ。洪水が引いたあとの肥沃な土地に作物を植える氾濫農耕(減水農法)を採用したのはエジプトだけではなく、他の古代都市国家も同様だったが、氾濫農耕にともなう毎年の土地測量と区画の境界線の引き直し作業は、土地の標準化=抽象化をより積極的に推し進める要因となった。小規模な部族の共同体ではなく、大量の人々が異なる役割を担いつつ生産をおこなう状況において要求されるのは、個体差を超えた再生産の基準である。専制国家の成立と、そこでの単位と尺度の厳密な統御こそが、正方形をはじめとした純粋な幾何形象の積極的な運用を動機づけた根拠となる。幾何学が建築においてまず基本的な役割を果たしたのは、こうした歴史のなかで、建築物を測定可能にしたことだ。
建築プロジェクトとは大量の物質を組織化された形態へと変化させる営為にほかならない。建築家が幾何学を必要としたのは、単に美的な問題ではなく、コスト面での最適化が必要だったからだ。建築物の構成要素を厳密に測定・標準化することで、建築家は建設に必要な時間と労働力を予測することができた。要するに「見積もり」が可能になる。だからこそウィトルウィウスは『建築書』(紀元前30年頃)のなかで、幾何学的製図の専門的実践を不可欠とみなすのだ。彼はここで、「比例」(analogia: proportiones rationes)を設計理論の中核と位置づけ、 これを用いた建築の構成を「シュムメトリア」(symmetria)と呼んだ[21]。比例は「あらゆる建物において肢体および全体が一定部分の度に従うこと」[22]であり、基準となる部位の寸法(モデュール)を建物の全体から比例的に求め、その他の部位をこの寸法の倍数および分数によって設計し、一貫した寸法体系を構築することを意味していた。この理論はルネサンス期に入るとアルベルティをはじめとした建築家によって引き継がれ、建築におけるプロポーション・システムの理論的追求の発端となる。しかしそもそも建築にとって幾何学がことさら有効・有用だったのは、ユークリッド幾何学が作図道具──定規とコンパス──とそれを運用する作図主体の身体性を前提とした論証プロセスだったからである。たまたま同じ道具を使うがゆえに、幾何学は建築の設計プロセスに明証性を付与するもっとも頼りになる参照元となったわけだ。要するに幾何学は、多人数での組み立てにおける手続き合理性を担保する核心だったわけである。幾何学がこうした作図的制約から解放されるのは一七世紀のデカルトを待たなければいけなかった。森田真生によれば、デカルトが『方法序説』の本論のひとつとして発表された『幾何学』で到達したのは、幾何学で認められる曲線は代数的な方程式で表現できる曲線であるということだった[23]。つまり、どんな器具や手法で描かれるかではなく、その曲線に対応する代数的方程式の有無によってこそ曲線は位置づけられるとデカルトは考えた。ブルネレスキらによって発展したルネサンス期の透視図法はデカルトと同年代のデザルク・パスカルによる射影幾何学の研究の発端となり、大量の技術者が必要となったナポレオンの時代には射影幾何学の研究がパリのエコール・ポリテクニークの創設に参画したモンジュらによって画法幾何学(図学)に応用される。図学の一般化、そしてデカルトによる「座標」の発見と代数幾何学は、最終的にCAD(computer-aided design)へと結実し、現在のわれわれの設計環境を支えている。ユークリッド幾何学からふたたび算術的=工学的な代数へ。さらに、「項とそれに対する値とを一意的に対応づける対応の法則」[24]たる「関数」(function)へ。建築の設計プロセスを基礎づける幾何学の性質は根本的に変化し、それに対応して、建築の根本的な原理も「機能」(function)への大きな転換を迫られる。
しかし、図形から寸法を排除したギリシア由来の幾何学を建築理論に導入したことに関しては、その代償も大きかったように思われる。森田慶一によれば、建築を構成する要素の各部分相互間および各部分と全体の量的寸法比例関係であるシュムメトリアは、‘syn+metrein’(共に+測る)から導かれた語であり、ギリシア数学における「共測」(通約可能性)と「非共測」(通約不可能性)の区分に対応している[25]。「数(自然数)」と「量(幾何学)」とを峻別するギリシア数学独特の態度が、建築理論になだれ込んでいる。そうこうしているうちに、幾何学を参照した造形理論においては、部分と部分、そして部分と全体の比例関係に、自然数と、√2をはじめとした単純な幾何学図形によって包摂される無理数以外は介在し得ず、尺度の違いによって生じる微妙な寸法の変化は捨象される傾向をもつことになった[26]。しかし、自生的な建築物は本来、曖昧な数値を多分に含んでいたはずである。比例理論をはじめとした建築の幾何学性(ユークリッド幾何学に準拠した形態や構成の統制)は、その構築性との強い緊張関係のなかで生じたのである。たとえばアルベルティは、素材から建物の構造体を造る技術(structura)と、ユークリッド幾何学を参照したかたちを決定する技術(lineamentum)に、建築術をはっきりと分別する態度を示している[27]。もちろん、線画による設計図を用いた建築プロセスは中世以来おこなわれており特に新しいことではないが、ここでのアルベルティの提案が従来の設計プロセス(定められた建築各部の伝統的形態モデルの組み合わせ)と大きく異なるのは、具体的な部材同士の関係で成立する建築という枠組みを透明な抽象図式として捉え直し、抽象的な線同士の関係を記述するための作業仮説として線画による設計プロセスないしは比例理論が提唱されていることである[28]。設計プロセスの論理性を徹底させた結果、建築の形象に備わっていた大きさや数値、あるいは経験的な要素といったものが排除されてしまう。これが建築における「構築」(construction)と「構成」(composition)の峻別、建設者と建築家の区分、そして知的労働と肉体労働の分離をもたらす決定的な契機となる。剛体に流れる力という観念が確立され、ベクトルの理解のもと骨組みに流れる力の流れを把握し、「静定」「不静定」といった区別が認識されたガリレオ以降の材料力学的視点に至ってもなお、建築理論に内在するこの破壊的性格が消えることはなかった。磯崎はこのことを誰よりもよく理解していた。
近代的な意味での最初の建築家は間違いなくブルネレスキである。ピエール・ヴィットリオ・アウレリは、ブルネレスキの「捨て子養育院」について、ふたつの尺度の立方体モジュールが建築全体に厳密に適応された空間構成になっている点、部材の装飾が徹底的に標準化されている点、色彩がグレーに統一されている点などに注目し、こうしたデザインの指針には守秘的な側面が強く当時強い権力をもっていた石工や絹織物などの職業組合(ギルド)から芸術的な自治権を奪う意図があったことを指摘している[29]。すなわち、現場の職人の即興的な判断を奪うために建築形態あるいは空間構成が抽象化し、造形理論が先鋭化したという解釈である。ブルネレスキが、壁で囲まれた空間としてではなく、明確に定義された輪郭線からなる骨格として建築をイメージしたのは、建築形態を一貫したデザインのなかで決定したいという欲求だけでなく、建設者の役割をあらかじめ決められた行為の遂行に還元することで、建設プロセスをコントロールしようという意志があったからだ。なぜか。「捨て子養育院」建設時のフィレンツェでは、真夜中の路上に捨て子が絶えなかったという。政治家でヒューマニスト(人文主義者)であったレオナルド・ブルーニにより提案されたこの建築物の設計は、上記の理由からできる限り安く、そしてできる限り機能的になされる必要があった。ブルネレスキはプロジェクトの完遂のために、厚みが脱略された幾何形象=基準線を通して幾何学が元来備えている破壊的な作用を行使し、建設労働を見事に「抽象化」させてみせた(同時にそれは、明らかに労働の疎外でもあった)。こうしたブルネレスキの態度は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドゥオーモ建設における装置の開発・運用にもあらわれている[30]。いずれにせよ、建築家という存在が建築現場におけるあらゆる決定を司る中心的な存在として発展したことで、現場の建設者たちがある程度の自律性をもちながら業務を遂行してきた伝統が破壊されたのである。ブルネレスキは具体的な建設者を抽象的な労働者へと変えてしまった。磯崎は「《建築》の根源はフィレンツェに違いあるまいと見当をつける」わけだが[31]、こうした労働の疎外の行使によってこそ、建築家という職能が誕生したのである。「建築の解体」が破綻する一点に現れる「大文字の建築」は、このヘゲモニーにある。
ブルネレスキの実践に見られる建築の「抽象化」を、剥き出しの構造体への還元や非装飾性に貶めてはいけない。それはあくまで抽象化の結果であって原因ではない。重要なことは、抽象的な形態が出現してしまう際の条件を見極めることだ。いうまでもなくそれは、建築生産における肉体労働と知的労働の分別である。さらにその先にある、職人的労働から工業的労働への移行である。手先に蓄積された非言語的な生産技術と実践的なノウハウに熟達した職人的労働者とは異なり、工業的労働者は生産手段に縛られることになる。労働主体の手段と主体性を引き剥がすこと。こうした労働の抽象化こそが近代建築概念の学問的基盤を支えている。このヘゲモニーは再帰的なのだ。たとえばロビン・エヴァンスが指摘するように、16世紀から17世紀にかけてのフランスでは、'trait'と呼ばれる切石組積(ステレオトミー)の独創的な技術の所有権が石工と建築家のあいだで争われていたのだが、このとき、労働の軽視とその矮小化を通して、建築家による石工の地位の収奪がおこなわれた[32]。型紙を用いた石の切断で3次元曲面を成立させるための一種のプレファブリケーションであったステレオトミーの名人芸的な技術は、前述したモンジュによる実用的な画法幾何学の開発に援用されて一般化し、工学的な技術者へと渡されることになる[33]。
ブルネレスキが試みた幾何学の政治的運用は、おおきくふたつの傾向をもって受け継がれる。まず、既存の生産体制に介入し労働の疎外をもたらす「反革命」的作用は、18世紀以降に発展した建設の工業化へと接続される[34]。代表的な例は戦後各国で発展したモデュラーコーディネーションだが、このとき共通の参照先となったのはA. F. ビーマスによる「立体基準格子」理論である[35]。1929年の世界恐慌を引き受けてビーマスが提唱したのは、すべての建築部材を立方体モジュールに準拠させることで、建築の大量生産・標準化された組み立て・類似した部品の交換等を可能にすることだった。ビーマスのモジュラー・システムは、建築の物理的側面だけでなく、金融、雇用、規制などといった政治的・社会的なシステムにも影響を与え、とりわけ住環境に関わるさまざまな要素の合理化へと結実する。これは経済的・社会的要因を背景にした空間構成の制約条件であると同時に、建築プロジェクトのリスクをコントロールする手段でもあった。
もうひとつは、歴史の切断・否定という「革命」的身振りである。いってしまえばルネサンス建築とは、当時の慣習や技術的可能性に対する破壊行為にほかならなかった。ブルネレスキやアルベルティ、パラーディオは、共同体を基盤とした集団的な建築プロセスを個人的な設計行為へと転換させた最初期の人物たちである。磯崎がブルネレスキや重源、18世紀後半のブレーやルドゥーらを引き合いに出しながら度々述べるように、革命期と呼ばれる直前あるいは初期には純粋幾何学形態にとりつかれたような建築家が現れ、いっさいと断絶したような自立的な形態を備えた建築が提案される[36]。ここでは経験的なもの(ハイエクのいう「自生的秩序」)の排除という幾何学の性格が全面化しているのである。
磯崎が開始したのは、幾何学の理念化が建築にもたらしたこのふたつの傾向──革命と反革命──を設計プロセスに内在させてしまうという前例のない試みであった。
6 デミウルゴス、あるいは補助線の力能
造物主は世界が生成する媒介者である。生成が終了すると姿がみえない。下敷き線、モデル、鉤縄である。仮定的で不可視である。この不確実な何ものかこそが二一世紀の創造世界を支配するに違いない、そんな予感をもって、造物主義論(デミウルゴモルフィスム)を冷戦構造が崩壊した時期に開始した。[37]
磯崎のいう「アントロポモルフィスム」(人体形象主義)は、人体の影が投影された形式が下敷きとなる形象生成・決定システムである。十五世紀以来の建築デザインは、近代建築でさえ、アントロポモルフィスム(人体形象主義)に拘束されていると磯崎は見る。さらに十四世紀以前の建築デザインは、想像上の神の姿を設計の下書き構図とするテオモルフィスム(神像形象主義)である、と。このふたつの形象主義の次に来るべきものとして、磯崎は「デミウルゴモルフィスム」(造物主義)を造語する。磯崎が生涯を通じて論じ/演じようとした「デミウルゴス」は、決定的な根拠が失われた状況のなかで、神でも、人体でも、場所でも、機能でもなく、無根拠を下敷きに創造を続けようとする主体性だった。こうした「「ゼロ度」からモルフォロジカルに生成することの理論化」[38]は「手法論」において先取りされている。手法(マニエラ)は文字通り設計を実践する主体の「手」を一定の仕方で統御する「法」すなわちオーダーであり、手の形式的な振る舞いが建築の設計プロセスを駆動させ、用途や合理性の事後的な発見を可能にする方法論だった。こうした手法(マニエラ)による形象の自動生成ともいえる実験的仮説は、イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーから引き継いだ「テンタティブ・フォーム」という用語により明確化する。試行・試案・仮説・実験的・不確実な宙吊り状態を意味する「テンタティヴ」な形式は、仮面のように、設計プロセスにおける形態生成の無根拠性を隠蔽するのである。言葉は変遷しているが、磯崎の非人称的な主体性を巡る思考は驚くほど一貫している。
プラトンの『メノン』のなかで、いつものように問答を繰り返すソクラテスが、召使の少年を呼び出して、この正方形の倍の正方形を描いてごらん、と問いかける有名な一節があるが、このとき彼が地面にせっせと図形を描いていたこと──線を描くという行為が実演されていたこと──はあまり注目されない。この幾何学の例題は、簡単なようで実は難しい。ある正方形の一辺の長さと、その倍のおおきさの正方形の一辺の長さは、整数比をもたない。つまりこの例題は、通約不可能な(共通の自然数によって測ることのできない)ふたつの長さを正確に描画せよ、と言い換えることができる。ソクラテスは再び地面をひっかいて少年にヒントをだす。田の字型に分割されたおおきな正方形の辺の中心同士を結ぶと、四五度回転した新たな正方形が現れる。少年は地面に残されたかたちを観察し、回転した正方形の面積が、ちいさな正方形のちょうど倍になることを発見する。彼は基礎的な数学の知識すら持ち合わせていないのだが、最終的には消されてしまう2×2のマトリクスの跡を通して、1:√2という(自然数では表現不可能な)比例関係を直感的に理解し、実際にそれを描画できるようになる。ここでの知識の獲得や形態やサイズの発展は、少年が創造したものでもなければ、ソクラテスが一方的に教授したものでもない。むしろ、仮設された幾何学図形の物性によって引き出されたものだ。『メノン』におけるこの一連のやりとりは、過程においてのみ現れる幾何学(磯崎がマニエラやテンタティブ・フォームと位置付けるもの)の力能を示すもっとも古い記録である。
砂上に図を書いていること、この一見取るに足らない細部に着目したのはベルナール・スティグレールである[39]。図形を描く行為、そしてそれを可能にしている条件を、プラトンはあたかも自明のものとして、まったく問題視していない。スティグレールはそこから、幾何学が宿命的に技術的な次元に代補されるものであると看破する(まさに定規とコンパスという存在によってこそ、建築と幾何学は等号で結びつけられる)。図を描く際の道具──砂と棒──は、問題を解くプロセスにおいてはあくまで偶有的なもので、砂と棒である必然性はない。そもそも外在化の必然性もない。しかし少年は決して、道具と外在化なしには正解にたどりつけなかっただろう。
建築が幾何学を取り入れたとき、政治的な力のみならず、こうした生成する力もまた導入したのだ。補助線──過程においてのみ現れる幾何学──の外在性こそが、設計すること(あるいは書くこと、描くこと)の読解-修正-加筆の循環性をもたらす。自分が引いた線が、自分が次に引きうる複数の線の可能性を開くこと。こうした道具=形式の行使・運用によって否応なく事後的に立ち上げられていく非人称的かつ複数的な建築家の主体性を、磯崎はデミウルゴスと呼んだ。設計行為は多重的な決定主体による闘争・交渉の試行錯誤の場となり、複数の〈私〉による共同制作という性格を帯びるようになる。
7 おわりに
磯崎が最初期のキャリアにおいて「反芸術」と呼ばれた新宿ホワイトハウスの面々と交流をもったことは、通俗的な建築に対するラディカルな批判精神として、すなわち「反建築」として、磯崎の生涯の建築的実践を貫くことになる。こうした磯崎の方法論を(間接的であれ)正確に言語化しえているのは、彼の盟友のひとり、宮川淳だと思われる。そもそも宮川と磯崎は、1964年に開催された公開討論会「〝反芸術〟是か非か」で同席している。宮川は討論会への応答した「反芸術 その日常性への下降」のなかで、「反芸術」の本質的構造を「コミュニケーションという虚体そのものを、いわば罠にかけて生捕りにし、実体化しようという、ほとんど不可能ともいうべき欲望」[40]に見出し、「マチエールとジェストとのディアレクティクにまで還元されることによって、表現過程が自立し、その自己目的化にこそ作家の唯一のアンガージュマンが賭けられるべきであった」[41]と位置付ける。マチエール(物質)とジェスト(行為)の交流へと還元・純化させることで、表現プロセスを徹底的に自立させること。これはデビュー作である「アンフォルメル以後」(1963年)から一貫して示されている宮川の一貫した方法論だが、この指摘はそっくりそのまま磯崎の「反建築」的実践に当てはまる。
同じものであり、しかも同時にほかのものであること、それがあるこことは別のところでそれ自体であること、それゆえに、ある〈中間的な〉空間、「表と裏、夜と昼──というよりも蝶番のように表と夜、裏と昼、そのどちらでもなく、しかも同時にその両者であるもの」、いわばこの非人称的〈と〉の空間そのものの侵滲であり、それがすべての自己同一性[……]をむしばむのだ。
宮川淳『鏡・空間・イマージュ』(42)
「不在の芸術はいかにして存在可能かという不可能な問い」[43]は、磯崎にとっても、宮川にとっても、「非人称性」すなわち「存在しないことの不可能性」[44]を論じさせるものだった。磯崎にとっては〈間〉であり、宮川にとっては非人称的な〈と〉の空間であった。そして、建築と反建築の、あるいは革命と反革命の、その「中間性」に生息する非人称的な構築意思──デミウルゴスが召喚される。前述したように、デミウルゴス〈私〉の複数化という共同性を設計プロセスにもたらすものだった。
ふたたび、幾何学の起源に立ち戻ってみよう。洪水や大雨、地震といった災害によって、土地の変動・差異・欠陥がもたらされ、それを相殺するための人間の努力として、比例(pro-portion)が発見され、分け前(portion)の正確さ・公平さに到達する。「洪水はその水で流域を削り取り、土地を無秩序状態に、原初のカオスに、ゼロの時間に、文字通り自然に戻す」[45]。偶発的な事故(アクシデント)をきっかけに、同意と意思決定のための技術として、幾何学が要請される。幾何学は「畑と租税という訳のわからぬものとの間の輸送」[46]を可能にした土地台帳の厳密さ、正当な正確さを模倣した。それは結局のところ、異なるAとBの翻訳を可能にする抽象作用をもたらす「何もない局所的空間の創出」[47]だった。磯崎の思想と実践において、繰り返し回帰するイメージは廃墟であり、その原型は大分の焼け野原の風景である。田中純が述べているように、磯崎のラディカルな空間概念の始点にして終点にある風景は、焦土のもとで見上げた「青空」だ[48]。立方体は、磯崎の根源的な空間体験ともいえる「一瞬の空虚」[49]を発生させるひとつの明確な方法となる。
新宿ホワイトハウスで生じているのは、幾何学という概念が「歪みうる」あるいは「腐りうる」という事態だ。立方体という問題構制が建築家にもたらすのは、まずもって重力との緊張関係だった。矛盾を解消すべく新たな技法やデザインのアイデアが産出される運動を、磯崎は設計プロセスに組み込んだのである。しかし新宿ホワイトハウスでの立方体の扱いは、群馬県立近代美術館ほど洗練されていないがゆえに、複数化した〈私〉の応酬を設計プロセス内部に封じることなく歴史に対して開くことになった。歪んだ立方体は、磯崎の問題群を「現在」という枠組みから解放する可能性をもっている。仮止めの幾何学として、自らへの介入を要請し続けることで。時を隔てた他者との共同を伴いながら。
かくして新宿ホワイトハウスは、過去の意志や出来事と現在の日々を生きるこの身体が分かちがたく混ざり合う非人称的な制作の「継続」の現場として、次なる誰かへと手渡され続けていく。
註
[1] 磯崎新『磯崎新建築論集8 制作の現場──プロジェクトの位相』岩波書店、二〇一五年、二五頁。
[2] 同書、二二頁。
[3] Chim↑Pomの卯城竜太、アーティストの涌井智仁、ナオ ナカムラの中村奈央が運営する会員制のアートスペース。
[4] 磯崎(二〇一五年)、三頁。
[5] 新宿ホワイトハウスの改修は、筆者が二〇二一年から二〇二三年まで共同代表をつとめた建築コレクティブGROUPによるものである。
[6] 井上岳+大村高広+齋藤直紀+棗田久美子+赤塚健/GROUP「改修 新宿ホワイトハウス」『新建築住宅特集二〇二一年八月号』新建築社、一四〜二五頁。
[7] 磯崎(二〇一五年)、八〜九頁。
[8] 磯崎新「立方体──わが敵」『手法論の射程──形式の自動生成』岩波書店、二〇一三年、一三〇頁(初出:『新建築』一九七五年一月号、新建築社)。
[9] 磯崎(二〇一三)、一三九頁。
[10] 磯崎(二〇一三)、一三一頁。
[11] 磯崎新・日埜直彦『磯崎新Interviews』、 LIXIL出版、二〇一四年、一七一頁。
[12] マーティン・バナール『ブラック・アテナ―古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ〈1〉』片岡幸彦訳、新評論、二〇〇七年、二〇六頁。
[13] ヘロドトスの記述について、ミシェル・セールは以下のように述べている。「あらためて問うが、幾何学とは何か。土地に関する何らかの測定である。[……]ヘロドトスのテキストが語るのは、ほかならぬ徴税における割引のことなのである。ファラオは、ナイル川が農民から奪ったものと等価な減税を認める。裁定者たる縄張り師がその測定をおこなうのは、耕作者と税吏がともに節度を心得て同意するためである。」ミシェル・セール『幾何学の起源 定礎の書』豊田彰訳、法政大学出版局、二〇〇三年、四〇八頁。
[14] オットー・ノイゲバウアー『古代の精密科学』矢野道雄・斎藤潔訳、恒星社厚生閣、一九八四年、七三〜七四頁。
[15] ヒルベルト、コーン=フォッセン『直観幾何学』芹沢正三訳、みすず書房、一九六六年、i頁。
[16] ギリシア数学の起源についての記述は、いわゆるイオニア学派の代表タレスとピュタゴラス学派の代表ピュタゴラスを中心としている。とはいえその記述というのは、彼らが活動したとされる年代から数世紀後に断片的な伝承などをもとに再構築されたもので、両者の数学的な著作が現存していたわけではない。タレスを最初の数学者と呼ぶようになったのは『エウクレイデス「原論」第一巻の注釈』を著した新プラトン学派のプロクロス(四一〇〜四八五年)によるところが大きい。彼は、アリストテレスの弟子であるエウデモス(紀元前三二〇年頃に活動したとされる)がタレスの時代から一〇〇〇年後に著した幾何学史の要約を自著に組み込み、幾何学の諸定理の発見をタレスのもとに帰したとされる。ピュタゴラスに関しても、その生涯についての信頼できる資料は今のところは存在しない。
[17] 斎藤憲『ユークリッド『原論』の成立』東京大学出版会、一九九七年、二五〜二六頁。
[18] エドムント・フッサール『幾何学の起源』田島節夫・矢島忠夫・鈴木修一訳、青土社、一九九二年、二九九〜三〇一頁。
[19] ジャック・デリダ「序説」『幾何学の起源』田島節夫・矢島忠夫・鈴木修一訳、青土社、一九九二年、二一二頁。
[20] フッサールがこうした理念化のプロセスを通して検証したのは、互いに十分理解しつつ語り合える能力をもった共同体において、内面的な形象が言表によっていかに伝播されるか、ということだった。「ところでなによりも重要なことは、つぎのような洞察をきわだたせ確定することである。すなわち、理念化のさいに、空間時間的形態の領域の必当然的に普遍的な内実、あらゆる仮構的変更において不変な内実が考察されるかぎりでのみ、あらゆる未来と来たるべきあらゆる人間世代にとって追理解の可能な、したがって伝承の可能な、すなわち同一の相互主観的な意味で追産出することの可能な理念的形象が生れうるのである。この条件は幾何学にとどまらず、さらにはるかに広く無条件かつ普遍的に伝統化可能であるとされるすべての精神的形象にとってもあてはまる。」フッサール(一九九二)、三〇二頁
[21] ウィトルウィウス『建築書』森田慶一訳、東海大学出版会、一九七九年、六九頁。
[22] 安岡義文「古代地中海文明圏におけるモデュールの技法について」『日本建築学会計画系論文集 第752号』日本建築学会、二〇一八年、二〇一五〜二〇二四頁。
[23] 森田真生『計算する生命』新潮社、二〇二一年、七二頁。
[24] 同書、一二二〜一二三頁。
[25] 森田慶一『建築論』東海大学、一九七八年、一二四頁。
[26] √2をはじめとした単純幾何学図形によって作図可能な非共測量は、自然数とともにシュムメトリアに組み込まれた。「ギリシア人はまたこの他に面積的に共約できる尺度関係もシュムメトリア的と考えていた。すなわち、1:√2の関係にある二つの寸法を、線的には非シュムメトリア的であるが、「平方的にシュムメトリア的」dynamei symmetrosであると言った。このようにギリシア建築におけるシュムメトリアは一つの造形法則であって、それは、形そのものの外から与えられる法則ではなく、内から発する法則なのである。」森田(一九七八)、一二五頁 。森田によれば、建築の形態に内なる法則性を求める考え方はギリシアに端を発している。このとき比例理論の根拠となったのはギリシア由来の幾何学、すなわち「数(自然数)」「量(幾何学)」を峻別し算術的な数値を排した公理主義の数学であった。
[27] アルベルティ『建築論』相川浩訳、中央公論美術出版、一九九八年、九頁。
[28] 福田晴虔『アルベルティ』中央公論美術出版、二〇一二年、一五〇頁。
[29] Aureli, P. V.: Architecture and Abstraction, The MIT Press, pp.37-40.
[30] ブルネレスキの監督下で一四一八年に着工したサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラの建設における彼の仕事は、建築の形式的な洗練のみならず、より直接的に建設技術の開発や建設工程の緻密なコントロールをおこなうものだった。コンパス状の治具を持ちいた矢筈積み(渦巻き状に旋回しながら煉瓦を積んでいく手法)による型枠なしの組積、クレーンや照明装置の開発、二重のドーム構造、煉瓦および石材のためのジョイント金具の開発、作業員が足場を上り下りする時間の最適化、厳格な安全チェック、食事や休憩のスケジューリングの徹底などである。こうしたブルネレスキの役割は15世紀以降、アルベルティによる図面の表記法の確立というかたちで継承され、以降、建築家が建物の原作者性を大々的に主張することになる。以下を参照のこと。マリオ・カルポ『アルファベット そして アルゴリズム: 表記法による建築──ルネサンスからデジタル革命へ』美濃部幸郎訳、鹿島出版会、二〇一四年。
[31] 磯崎(二〇一五年)、二四五頁。
[32] Evans, R., The Projective Cast : Architecture and Its Three Geometries, The MIT Press, 2000, p.205.
[33] ibid., pp.323-331.
[34] 一四世紀、フィレンツェの建設労働の状況は著しく悪化する。とりわけ1347年から1353年にかけてヨーロッパを襲ったペストの蔓延は決定的だった。欧州人口の3分の1が死亡したことで、労働コストが増大したのである。この余波で、労働者がより良い労働条件を求めて為政者と交渉することが可能になる。1378年、羊毛ギルド(Arte della Lana)のもっとも貧しく搾取される労働者であったチョンピの羊毛梳き職人らが、ギルドを支配するアルビッツィ家を中心にした政策運営に反旗を翻した。激しい弾圧を受けるまでの数ヶ月間、彼らは共和国を維持的に占拠し、短期的な革命政府を樹立する(このとき反乱を扇動したのは当時新興商人であったメディチ家のサルヴェストロ・デ・メディチであり、この出来事がフィレンツェにおけるメディチ家の政治的イメージを形成することになる)。この「チョンピの乱」が穏健派の中小市民層にもたらした政情不安はその後、有力市民層による寡頭支配体制の再成立という帰結をもたらす。こうした歴史的文脈を踏まえ、上述したアウレリはパオロ・ヴィルノを援用しつつ、ブルネレスキの実践にある「反革命」(counter-revolution)という側面を指摘する。ヴィルノによれば、反革命とは「反転された革命」(revolution in reverse)である。それは為政者による革命運動の暴力的な抑圧ということを必ずしも意味するものではなく、革命や社会運動がもたらしたものをあらかじめ資本の側が取り込み、秩序の維持・運営のために使用していくことを示していた。以下を参照のこと。パオロ・ヴィルノ「君は反革命をおぼえているか?」『現代思想一九九七年五月号』 酒井隆史訳、 青土社、一九九七年、二五三〜二六九頁。
[35] Bemis, A. F., The Evolving House Volume III Rational Design, The Technology Press, 1936.
[36] 磯崎新『建築における「日本的なもの」』新潮社、二〇〇三年、一八九頁。
[37] 磯崎新『デミウルゴス 途上の建築』青土社、二〇二三年、二〇頁。
[38] 磯崎新『瓦礫の未来』青土社、二〇一九年、三一頁。
[39] ベルナール・スティグレール『偶有からの哲学』浅井幸夫訳、新評論、二〇〇九年、六六頁。
[40] 宮川淳『絵画とその影』みすず書房、二〇〇七年。六四頁。
[41] 同書、六〇頁。
[42] 宮川淳『鏡・空間・イマージュ』美術出版社、一九六七年、三三〜三四頁。
[43] 宮川(二〇〇七)、六六〜六七頁。
[44] 同書、一一二頁。
[45] ミシェル・セール『幾何学の起源 定礎の書』豊田彰訳、法政大学出版局、二〇〇三年、三九六頁。
[46] 同書、四〇七頁。
[47] 同書、五五頁。
[48] 田中純「磯崎新論 第9章ミラノ/大阪、見えない廃墟」『群像 2022年9月号』講談社、二〇二二年、五四九〜五六一頁。
[49] 磯崎新・日埜直彦『磯崎新インタヴューズ』、LIXIL出版、二〇一四年、八五頁。