アナーキズムの条件 ──中平卓馬と〈暗い部屋〉

1 アナーキストは建築家になり得るか?

例えばアナーキストの建築家、世界の根底からの転倒をもくろむ建築家などというものがはたして存在しうるものなのであるか否か。極論すれば、革命家と建築家とはそもそも形式論理からいっても敵対矛盾の関係にあるのではないか。(……)近代の建築の論理に反抗し、なおかつ建築家として作品を創り続ける、そのような建築家はいないものなのだろうか。(……)だが無念にも都市、建築の破壊は一手早く権力の側から行われているというのが現状である。すでに建設業者と建築解体業者とは手を結んで「列島改造」を進めている。権力の側からの都市の破壊、それに対するわれわれの側からの都市の解体・破壊はいかなる形態をとるべきなのか。そしてその時、建築家に何ができるか?それが今日の危機的状況を危機的に生きぬこうと決意した建築家に問われるたったひとつの問いなのではないだろうか。(……)だが、しかもなお建築家であることをひきうけつつ真の解放(むろんそれはあらゆる意味を含んでいる)を目指す者は、今一体、何を考えているのだろうか?

中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」(1974年)[1]

1974年、中平卓馬は自身が表紙を担当していた『近代建築』誌上でいささか挑発的なテキストを寄稿する(Fig.1)。64年の東京五輪から70年の大阪万博にむけて加速していた高度経済成長が公害問題やオイル・ショックにより一時頓挫し、70年安保改定を前にした全共闘運動がすでに息をひそめていた時期であり、同時に、大規模なスクラップ・アンド・ビルドによる都市空間の変貌の只中にあった時期のことである。中平が投げかけたのは、世界の普遍性・不動性に対する建築家のオプティミスティックな態度への批判であり、「アナーキストは建築家になり得るか?」という疑義であった。

Fig.1 『近代建築』1974年1月〜12月号

その確信に満ちた口調の背景にあったのは「今をときめく黒川紀章の一冊の薄っぺらな本」で彼が感じた、建築家の、世界は無限に安定をかさねてゆくであろうといった歴史観、あるいはバラ色の未来を描くその世界観への、“ほとんど生理的な反ぱつ”であったという。たとえば岡崎乾二郎が指摘しているように、黒川をはじめとした戦後のメタボリストたちの計画で実装されたのは、中心となる主体の座(コア=インフラとなる主要部分)を永続させるため周辺の消耗的な部分を交替させるという仕組みであった[2]。つまるところそれは基幹構造(政府であり交通網でありインフラ設備であり、なにより当時未来のエネルギー源として期待されていた原子力発電所である)をむしろ強化するシステムであり、近代的な政治権力をより一層増長させるものにほかならず、中平の指摘する通り、このときまさに建築家はアナーキストとは正反対の立場にあったといえるだろう。

上記の中平の疑義はあくまで〈建築〉に向けられたものだが、しかしこれは同時に自己批判でもあった。このテキストからおおよそ2年前の1972年、中平は『プロヴォーク』の総括を以下のように綴っている。

われわれの戦線は明白に二つの領域にわたっている。第一に権力による具体的な政治的な情報操作の領域、第二に、それこそがエンツェンスベルガーのいう「意識産業」の主要なホーム・グラウンドであるが、われわれの日常に深く浸透する日々の意識と感性の操作と収奪、その二つにいかに具体的な反撃を加えてゆくか、それがわれわれの二つの戦線である。だがむろんのことこの二つはともに「人間と人間の関係」に根ざすものである以上、必然的に政治的な戦いにならざるを得ないだろう。

中平卓馬「記録という幻影」(1973年)[3]

マス・メディアのなかで仕事をするしかないということを引き受けながらも、ただそれをいたずらに非難するのではなく、具体的かつ現実的な実践を通して批判していくこと。中平自身は「図鑑」というコンセプトで、「まず第一に〈関係〉であり、人間と事物と空間との〈媒介項〉」 [4] である都市を解きほぐし、開いていくための写真の視覚的実践のモデルを提示した。「アナーキストは建築家になり得るか?」(以下「アナーキスト」)で建築家が問いただされたこともまた、建築家であることを引き受けた先に、「真の解放」にむけた具体的な実践形式がありうるのかどうか、ということである。しかし中平による〈建築〉への疑義は閑却され、すくなくとも公の場では返答されることがないまま、半世紀余りが経ってしまった。

中平の実践は往々にして1977年9月の記憶喪失の病をさかいに分別される。しかしそうではない。いささか伝説化してしまっている記憶喪失の前後の中平の実践はむしろ驚くほど連続しているのであり、同時に、中平の後期の写真作品はまさに上記の「第二の戦線」(日常に浸透する日々の意識と感性の操作)に差し向けられたものなのである。

茫漠とした日常性においてこそ情報社会におけるマス・メディアが果たす真に政治的な役割があるように私には思える。マス・メディアはわれわれの日常性を制度化し、そのことによってわれわれの感性を制度化し、統御する。

同書[5]


この一点に、建築的な実践が「生の解放」のためになすべき政治的闘争と、中平の写真実践が重なる地平を見つけ出すことができるのではないか。本稿は、長らく忘却されてきた中平の挑発的な疑義を建築家である筆者が引き受け、現代との応答の回路を拓くことを目的とする。私たちの生を枠付けている制度への違反・冒険・逸脱の形式を中平自身の言説及び制作物から取り出すことで、かつて中平が示唆した「アナーキスト的建築家」という存在の可能性を検討してみよう。

2 制度化された空間に抗して

2-1 挑発(provoke)から日常性批判へ

「個人的主体の自律性」と「社会の際限なき発展」という近代のふたつの信仰は、「理性主義」という概念において重なり合う。世界の有り様にはすべて必然的な根拠があり、あらゆる真理は理性によって論証される必要があるという理性主義は近代に特徴的な啓蒙的思想である。非論理的な因習の脱却を目指した「理性」は近代的な主体の第一の行動基準であり、近代人はそれを賭け金とすることで、「個人の自由」あるいは「主体の自律性」の実現可能性を得た。しかし同時にそれは、「生産性」に応じて最大の利益を得るプロセスを約束する枠組みでもあり、社会の資本による合理的な支配とその滑らかな運用の基盤となる概念であった。

この「個人の自律」の功罪こそが追求されるべき大きな問題だったのであり、だからこそ「理性」は資本制に対抗する政治的・文化的・社会的闘争の場となる主要なサブジェクトだった。左翼運動の画期となったのは1968年5月、「学生紛争」という前代未聞の出来事による地政学的な危機である。中平もまた「熱い」運動に見を投じたひとりであった。しかし、武力を用いた左翼運動の激化とその悲惨な結果を受け、国民は急激に脱政治化していくことになる。その後出現するのはコルネリュウス・カストリアディスが「順応主義」と定義したもの、すなわち政治的な問題の理解の拒否・無関心という姿勢である[6]。資本主義的な合理性に対する体系的な批判が息を潜め、代議制民主主義が消極的に受容され、「多元論」と「差異の尊重」に重きを置かれるようになった時代。まさに我々が生きてきているこの時代だ。

近代社会が目指した自律性、それは個人の主体性を約束するものであった一方で、コインの裏側にはあったのは、政治的主体を生産-流通-消費の網の目に絡みとることで資本の支配下におくという生権力(=人々の生に働きかけ介入しようとする近代産業社会の権力構造)である。中平が初期の「アレ・ブレ・ボケ」を用いた写真制作で目指したのは、こうした高度に発展した資本制における循環-流通-消費の不可視のシステムを「切断」することであった。しかし先に示したように、その後の中平の制作は「第二の戦線」(日常に浸透する日々の意識と感性の操作)へと、つまり、写真というメディアがもつ生権力への直接的な攻撃というよりは、むしろ日常に根ざした内在的な批判に移行していく。

はっきり言ってしまうならば、状況をひきうけて〈私〉は初めて成りたつのであり、エンツェスベルガーが一笑に付すように、隠れ家としての〈私〉などはない。それはブルジョイ・イデオロギーがふりまいた幻影としての個=ワタクシであるにすぎない。(……)なぜいまさら〈私〉をことさらに言いたてる必要があるのか。反対に〈私〉を世界に向かって開き、〈世界〉に対して事物に対してできうるかぎり「受容的」であることがいまこそ必要とされているのではないか。(……)われわれは毎日毎日をひとつの意味の体系としての〈遠近法〉にしたがって生きている。この〈遠近法〉はわれわれの行為と経験、身振りと習慣、こういったものがより合わさってでき上がったものである。

中平卓馬「まち──見ることの遠近法」(1976年)[7]

エンツェスベルガーが『意識産業』でしめしたのはまさに、情報産業が裏打ちする権力構造のなかでは自律的な個というのは存在せず、ずたずたに引き裂かれているという現実であった。近代が目指した個の自律性が生み出したのは、世界の有り様をあらかじめ規定する〈遠近法〉(パースペクティブ)であり、事物や経験、習慣の布置は措定された「架空の消失点」によって統御される。中平が求めていたのは、写真というメディウムがもつ「受動性」をラディカルに引き受けることで、規定の〈遠近法〉を撹拌し、その先に、事後的かつ仮設的に軽やかな主体性を再-編成する可能性であり、そしてそのための新しい写真制作の方法を見つけ出すことであった。『アサヒカメラ』で「決闘写真論」連載されていた76年は、多木浩二の『生きられた家』が出版された年でもある。すでに主戦場は、ゆるやかに、日常的な環境への批判的実践へと移りつつあった。

『プロヴォーク』以降の中平の制作の軌跡を簡単に紹介しておこう。中平は1968年創刊の『プロヴォーク』、そして70年に刊行した写真集『来たるべき言葉のために』において、グラフ・ジャーナリズムの予定調和的な物語づくりへの徹底した批判を展開し、風景と対峙した。中平はここで欧米や日本における大量消費社会、あるいは情報社会の到来に対して視覚の不確かさをラディカルなかたちで提示することに成功する。が、それがアクチュアルな状況への批判であればあるほど、そのときの「否定の身振り」はスタイルとして消費され、瞬時に陳腐化してしまうだろうことは、中平自身がもっともよくわかっていた。翌年のパリ青年ビエンナーレでは、とりわけ制作過程に重きがおかれることになる(《サーキュレーション 日付、場所、行為》)。中平はパリを縦横無尽に撮影し、大量のプリントを日々追加・変更を繰り返しながら展示した。それは写真家が自らを作品の演算子=オペレーターとして位置づけることで「書き直し」をくりかえす新陳代謝のプロセスであり、エンゲルスが『自然弁証法』で示した物質連関=物質代謝の様を――黒川らメタボリストよりもよほど正確に――描き出していた。中平は《サーキュレーション》において、モノとイメージの断片が循環・流通するさまをインスタレーション化すると同時に、自らの身体をそうしたフィードバック・プロセスのたんなる媒介物と位置付け使用することで、遠近法的世界観に固着した主体性を解体・廃棄するのである。

74年、東京国立近代美術館で開催された「15人の写真家」において中平がおこなった制作《氾濫》は、《サーキュレーション》から地続きの問題意識のなかにあり、73年の「なぜ、植物図鑑か」(以下、「植物図鑑」)で提起された問題と並行している(Fig.2)。冒頭で引用し、本稿が主題に置く中平の論考「アナーキスト」が発表されたのは74年であり、《氾濫》には『近代建築』誌上で発表された写真も含まれている。《氾濫》および「植物図鑑」で結晶化している彼の問題意識こそ、筆者がここで取り出さなくてはならないものである。

Fig.2 《氾濫》(写真: 1995年 東京国立近代美術館)

2-2 植物図鑑

《氾濫》における問題意識について、フランツ・K・プリチャードは次のように指摘している。

《来たるべき言葉のために》に支配的だった様式から離れて、都市の物質的現実をカラー写真でとらえたこの連作を通して明らかに示されているのは(……)「植物的なもの」の諸形態に対する、境界画定的な分離と不気味な遭遇の二つの感覚である。安全な距離感覚を所有せず、風景に対して抗議の声をあげるための適切な言葉を欠いた「植物的なもの」。この呼称は、異質な次元を媒介する関係の諸形式を開こうとする、暫定的な方法を意味した。

フランツ・K・プリチャード「都市氾濫の図鑑──中平卓馬の写真的思考と実践」( 2018年)[8]

「植物」は中平にとって、「樹液=血液、葉脈=動脈という類縁、一瞬ぼくの心を安堵させるなにかしらの人間的なものがある」[9] 一方で、〈防水性の外皮〉による感情移入の拒絶をもたらすものであった。つまり植物は、人間でなく、かつ人間でなくもないような、両義的な存在を範例として示すものだったのである。「なぜ、植物図鑑か」での記述をみていこう。

世界と私は、一方的な私の視線によって繋がっているのではない。事物、物の視線によって私もまた存在しているのだ。(……)いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は、事物は私に向ってまた物の視線を投げ返してくるのだ。そこには私の視線を拒絶する世界、事物の固い〈防水性の外皮〉がただあるばかりである。(……)写真を撮るということ、それは事物の思考、事物の視線を組織化することである。(……)おそらく写真による表現とはこのようにして事物の思考と私の思考との共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ。

中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」(1973年)[10]

中平が示した方法は事物と私の共同作業、いわば非人間とのパースペクティブの交換であった。事物を凝視すること、と、事物に視線を投げ返されること、の同時性。かつて多木が指摘したように、「身体を世界に貸し与える」というこうした中平の制作姿勢は『来たるべき言葉のために』(1970年)の時点ですでに発現していたものだ[11]。そこにはロマンティシズムへの欲望がわずかに残存していたが、「植物図鑑」の時点では情緒はもはやノイズでしかなく、徹底して排除すべきものになっていた。

たしかに一枚の写真をとりあげてみる限り、それは私という一点から一方向的に覗き見た空間を呈示しているだけにすぎない。だが一枚の写真の空間に限定するのではなく、時間と場所に媒介された無数の写真を考える時、一枚一枚の写真のもつパースペクティブは次第にその意味が薄められてゆくのではないか。つまり、そうすることによって時間に媒介され、無限に乗り越え、乗り越えられるもの、それはまさしく世界と私、それら二次元的対立をつつみ込んだ場としての世界の構造を明らかにしていくことが可能なのではないか、ということなのである。そこにはもはやスタティックな私と世界という図式は消え、無限に動き続ける無数の視点が構造化されてゆくのではないか。

同書[12]

《サーキュレーション》におけるおびただしい数の写真の列挙、あるいは《氾濫》における都市の「不気味なもの」の凝視といった姿勢は、こうしたパースペクティブの複数性を目指す姿勢に基礎づけられている。「都市は氾濫する。事物(もの)は氾濫し、叛乱を開始する。大切なことは絶望的にそれを認めることなのだ。それが出発である」[13]。中平が政治的闘争の場として目指したのは、人間中心主義を脱した先にある「私の視線と事物の視線が織りなす磁気を帯びた場」であった。

植物、図鑑、そしてこの二つの語の繋がりは奇妙に私の関心をひく。(……)なによりも図鑑であること。魚類図鑑、鉱山植物図鑑、錦鯉図鑑といった子供の本でよく見るような図鑑であること。図鑑は直接的に当の対象を明快に指示することをその最大の機能とする。あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつのが図鑑である。(……)あらゆるものの羅列、並置がまた図鑑の性格である。図鑑はけっしてあるものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない。(……)この並置の方法こそまた私の方法でなければならない。そしてまた図鑑は輝くばかりの事物の表層をなぞるだけである。その内側に入り込んだり、その裏側にある意味を探ろうとする下司な好奇心、あるいは私の思い上がりを図鑑は徹底的に拒絶して、事物が事物であることを明確化することだけで成立する。これはまた私の方法でなければならないだろう。

同書[14]


中心をもたない全体のなかで、事物が並列・併存すること。「図鑑」はあくまでの写真的な手法だが、それは「見ること」の近代的な統制に対する批評行為のための方法論でもあった。

植物図鑑。すなわち、人間でなく、かつ人間でなくもないような事物とのパースペクティブの交差の場を並立・併存させること。不条理な現実のなかで、しかし、決して一元化されえない無数の事物たちによる葛藤・抗争の場がそれでもありうるのだということを、たとえフィクションだとしても、示すこと。中平にとって写真の可能性はこの一点にこそあったのではないか。写真というメディアのもつ特性を最大限酷使することで植物的な〈眼〉を観賞者に(あるいは自身に)刻み込むこと、すなわち制度化された日常性をものともしない非人間的な遠近法を携えた身体を編成しなおすこと、こそ、中平のアナーキズムなのである。


3 〈眼〉の狩人

3-1 生死を賭けた撮影

1977年9月、中平は急性アルコール中毒により昏睡し、意識不明の重体となる。その後奇跡的に生還した中平は、記憶の欠如と失語症に苦しみながらも精力的な写真制作を再開し、カラーポジ、縦構図で対象を鮮明に撮るという後期の形式は1990代初頭までに確立される。90年以降の中平の写真はしばしば、作品そのものというよりは「撮影する」という行為の重要性に比重が置かれる。中平という存在自体が神話化してしまい、作品そのものの形式的な価値は宙吊りにされてしまったのだ。事故によって、中平の作風も実践のありようも、すべてが急激に変化したという解釈を、本稿は拒否する。中平の後期の写真が「解釈不可能」であるとい態度も、否定する。ここではむしろ、中平の実践が事故の前後での驚くほどの連続性をもっていることを強調したいのだ。

とはいえたしかに、極度に断片化した日々の「これ」を切断的に写し取る後期中平の写真を、「中平卓馬」というモチーフなしに解釈することは大変な困難をともなう。他方で倉石信乃は、後期中平の写真を理解するさいに、「狩猟=撮影」といういささか古典的なモチーフが、従来の意味とはまったく異なる新たな価値をもつことを指摘する。

寝ている人などを撮影する際、シャッターがリリースされた瞬間、中平はすばやく対象から離れることがある。漸次的な接近と素早い離反を伴うひとつづきの「シューティング」と出来上がった写真とは無縁であるはずがない。中平はここで明らかな「恐れ」を抱いている。恐れの理由は、物理的な攻撃を受ける可能性を察知してのこと、と言うだけでは足りない。その理由をより物語るモティーフは、人間よりもむしろ「動物」の方だと言えるかもしれない。動物からのまなざし、見つめ返されることに恐れているのだ。いやむしろ、中平はいつも見られている。少なくとも、たとえば字義通りに眼を写真家の方に向けていなくとも「事物のまなざし」が存在すること、その眼差しの射程範囲を逃れることはできないこと、それを前提に撮影しているからこそ、怖いのだ。(……)われわれは中平の撮影時における注視の眼差しが、結果的に「狩る」動物と人間とを等価値的に参照したものとなることを改めて想起しなければならない。

倉石信乃「人と動物 後期中平卓馬の写真」(2017年)[15]

この「恐れ」は何を意味するのか? 倉石が述べているように、中平の恐れは「見ること」が「見られること」に常に開かれているという双方向性を提示していると同時に、撮影のさなか、彼があらゆる事物のまなざしを了解していることを示している。われわれは中平の撮影行為を、アナロジーとしてではなく、文字通り生死を賭けた「狩猟」として理解せねばならない。石を撮影するという行為は石のまなざしを収奪するということであり、それは石のパースペクティブから世界をまなざすということ、つまり、自らをはんぶん石にしてしまう行為なのであって、撮影においては鉱物・植物・動物・人間といった領域の画定が撹拌され、一時的にそれらの「中間性」を生きることが要請される。中平の写真がもつラディカルさ、その方法論としての可能性は、この中間性への踏み込み(一時的に、仮設的に、抽象的な思考を捨てて「狂気」の方へ踏み出す態度)に凝縮している。こうした態度を彼にもたらしたのは、中平自身が経験した知覚の異常にあった。

しかしいったい見るということは何なのだろうか。むろん見るということは、世界を見られるべきもの=対象に還元し、私と対象との間に安定した距離を確立すること、そのことによって世界を意味化し、所有することであることはわかっている。だがもしこの距離が崩壊したら? 私事になるが、数年前、私は不眠症のために睡眠薬を常用するようになり、その結果、恒常的な知覚異常を惹き起こし、ひと月近く入院したことがあった。その時の幻覚をひと口で言いあらわすことはむずかしい。幻覚といってもありもしない幻を見るのではない。つまりそれはこの距離感の崩壊であり、事物と私との間に保たれていたはずのバランスの喪失であった。(……)国電(JR)に乗っていて車窓から景色を眺めていると、ある一瞬からそれらの事物が眼球に突きささっていくる。疾走する車中の自分を守るためには眼を閉じたまま座席の肘掛けにしがみついていなければならない。そのような知覚の異常がこうじて、事物を見ることは物が直接眼球に突きささってくることであり、意識とは事物が眼球、あるいは網膜を傷つける、その傷痕であると堅く信じるまでになり、街を歩くこともできなくなっての入院であった。その不安はまったく消えてしまったわけではなく、病者の意識はいまなお私の意識にひきつがれている。まさしく「見る」とは、事物が私に向かって突きささってくる、その反転した言い回しではないだろうか。

中平卓馬「都市への視線あるいは都市からの視線」(1976年)[16]

対象の位置と知覚の位置が一致し、〈事物〉と〈私〉の距離がゼロとなるような局面を、実際に中平は経験していた。中平は、「見ている」ことと「見られている」ことが混濁するこうした局面においてこそ、事物との関係性における最も強烈な、擦れるようなリアリティを感じたのではないだろうか。そしてこうした感覚は、中平が写真撮影に抱いていた「恐れ」につながっていくものではないだろうか。中平の「狩猟=撮影」は、対象を仕留めるのではなく、対象の眼を奪うことだった。鯉の眼、ヤギの眼、石の眼、ヤシの葉の眼。それらを掠め取り、フィルムに定着させる。それは常に危険がともなうような命がけの〈眼〉(パースペクティブ)の収奪であり、動物だけではなく植物や鉱物も含めた種々雑多なオブジェクトのまなざしをフィルムに定着させようとする行為なのである。では、その〈眼〉は、いかにして観賞者へと配達しうるのか? 見るものを無数の事物のパースペクティブが交錯する場に参加させるための具体的な技術、そして「これは図鑑である」ことを宣言するための文法の構築に向けて、中平は進みはじめる。1990年代以降の中平の制作は、まさにこの技術の習得と実践に差し向けられていた。

3-2 《Documentary》における構成形式

後期中平の制作物をみれば、いかに中平が〈眼〉の交換に自覚的であったかがわかる。横浜美術館で2003年に開催された「原点復帰─横浜」展以降、2009年までに撮影された作品で構成されている《Documentary》[17] をみてみよう。特徴的なのは二枚一組で構成される見開きの構成に、ある一定の傾向が見いだせることである。中平が組み合わせのさいにこだわっているのは「視線のあるもの」と「視線のないもの」をペアとすることだった[18]。対象(往々にしてそれは動物であり、〈眼〉をもつ)を明確に写し取った写真が片方にあり、もう片方にはただ質感としかいえないような写真(その多くは植物や鉱物である)が並べられ、観賞者はこの両方を見比べることになる。

Fig.3 《Documentary》より一部抜粋

「視線のないもの」は、見るものに強い没入を強いる。まるで意識がそこに吸い込まれていくように。質感を見ることの根本的な快楽が、われわれの身体から〈眼〉を引き剥がし、非人間と癒着させる。しかし隣り合う「視線のあるもの」によって、その没入はただちにキャンセルされるだろう。ここには「没入」と「反-没入」の同時性という、明確な形式が存在している。

写真に没入するということは、端的に、カメラと眼を等号で結ぶようなフィクショナルな知覚のモードであり、もういっぽうにあるのは、眼の前にある印画紙を認識するという知覚のモードである。中平の作品においては、「対象を見ている私」(眼=カメラ)と、「印画紙を見る私」(「私の眼」のたんなる現前)がすばやく往来を繰り返す。この運動こそが、後期の中平の写真群がもつ独特な質をもたらす。崖壁の豊かな陰影に没入した私のパースペクティブがとなりの鯉へと移行するとき、私は鯉の目線で私たち自身を見返すかもしれない。〈眼〉が動く。動かされる。

かつて「植物図鑑」で予告されていた「私の視線と事物の視線が織りなす磁気を帯びた場」における「植物的なもの」(人間でなく、かつ人間でなくもない事物)との「共同作業」というコンセプトは、きわめて正確に、そして理論的=形式的な操作によって、後期の中平の制作物に実装されている。中平の写真を前にした観賞者は、人間や植物といった領域が撹拌された「中間性」を生きることを、一時的に引き受ける。人間としてのまなざしはそこで柔らかくほぐされることになるだろう。私たちは部分的にヤギになりながら、アヒルになりながら、ヤシの葉になりながら、石になりながら、写真を凝視する。これは中平が理論的にその可能性を示唆した「植物図鑑」にほかならない。

4 建築、への、植物図鑑的抵抗

人間でなく、かつ人間でなくもないような事物(=植物的なもの)とのパースペクティブの交差の場を並立・併存させること。中平は写真を撮るということ、そして写真を見るということを通して、近代的=遠近法的な身体・思考をときほぐそうとしていた。新たな仕方での「狩猟=撮影」をひとり開拓する冒険を通して。それは近代の産業構造によって制度化される日常性を解体し、イデオロギーによる感性の統御に抗するための、いわば身体の再編成のプロセスだった。

あらためて問うてみよう。アナーキストは建築家に、あるいは建築家はアナーキストに、なり得るか? 

部分から全体を撹拌し、人間でないものの視点から人間の条件を問い直し、制度化した日常を一度解体した上で、身体をつくりなおしていく。これが中平にとっての──より正確にいえば彼の「第二の戦線」における──アナーキズムである。建築家にできることがあるとすれば、このアナーキズム的な「生の枠づけ」への抵抗を可能にする場の立ち上げを、自らの実践のなかで問い続けることだろう。

4-1 建築における全体と部分

中平が「植物図鑑」で示した方法──「中心をもたない全体」における「並置の方法」──を建築に接続するために、建築における全体と部分の関係を改めて問い直してみよう。

たとえば自─他、質─量、全体─部分、といったカテゴリー対では、身体(主体性)がある限り、その把握・了解にはつねに方向性が生じる。たとえば「自」と「他」は一見平等に見えるが、この種のカテゴリー把握において、これらは決して可換的・平等な対立とはなりえない。必ず、「自」が先行する。「自」は、直接体験的に「わかる」と感じられる。そして「自」の把握は、同時に「自でないもの」の把握も可能にする。そしてこの「自でないもの」を、「他」と名づけるわけだ[19]。「全体─部分」に関しても、実存的に先行するのは「全体→部分」という方向である。私たちがある「机」を認識するとき、ある対象をひとまとまりの「全体」として把握しているわけだが、このときあらゆる「部分」について知っている必要はない(机の脚や天板の裏を見なくとも、机の把握は可能である)。部分(たとえば机の脚)は全体(机という対象)に対して、つねに不特定多数の関係にある。逆に、机の脚をみて机を想起するという換喩的な経験は、机という全体の措定なしには成立しえない。

近代建築が目指したのは、まさにこの「全体→部分」という一方向的な把握を徹底することだった。機能主義は建築全体を単一の目的に従属させ、あらゆる部分をその目的に奉仕させる。モダニズムの透明性への志向は、全体の把握を容易にすることで、建築を完全に制御可能なものにしようとした。黒川らメタボリストの計画もまた、中心(コア)から周辺へという階層的な全体性を前提としていたのである。しかし建築のような内部空間をもつ立体物はその構造上、つねに部分的にしか経験できない。だからこそ本来「全体」には、部分の経験によってそのつど新しく掴み直される可能性が潜在している。全体は常に、部分の総和以上のものであり、そして同時に──とりわけ建築においては──部分から想起されうる全体もまた不確定に分裂・拡散しうる。

中平が「図鑑」において目指したのは、まさに全体と部分の関係の転倒だったはずだ。「あらゆるものの羅列、並置がまた図鑑の性格である。図鑑はけっして あるものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない」。中心なき全体において、部分は全体に従属するのではなく、部分それ自体として並立・併存する。そして観賞者は、無数の部分のあいだを往来することで、事後的に、仮設的に、全体を再構成する。では、建築において、「部分→全体」への反転を可能にする条件とは何か。

4-2 暗い部屋

子供の頃、私たちが住んでいた家にはどこか一角、必ずじめじめとして暗い場所があったものである。そんなところにはなんとなく行くのがいやであって、たまたま客などが来てそこに寝なければならならくなったりした時は眠ることができず、寝落ちても悪い夢ばかり見たものであった。しかし、そうした部分も含めて家を媒介にした私たちの精神の構成はなされてきたのではなかっただろうか。その一角がこの巨大なビルにはどこにもありはしない。たしかに近代の建築はそのような暗い部分を徹底して排除してきたことであろうことは、近代的理性のロジックから言っても当然すぎることであろう。だがこれらのビル群はあまりにも徹底している。その堅牢な美しさにおいて、これらの建築はほとんど完璧である。

中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」(1974年)[20]

中平がここで指摘している建築の暗い部分は、部分と全体の関係性の反転を、あるいは日常への反省性を、建築にもたらすためのひとつの鍵である。

壁の厚みや床下、天井裏、階段の裏側といった建築における「体験できない場所」、建築の「暗い部分」──この領域を本稿では〈暗い部屋〉と呼ぼう。まずもって床下や天井裏といった〈暗い部屋〉は長らく、直接体験できないからこそ、人間の建築をめぐる想像力の源泉になってきた。そしてこの〈暗い部屋〉こそ、近代主義=モダニズムが排除しようと試みてきた領域でもあった。しかし厚みをもたない建築物など存在しないから、〈暗い部屋〉が完全に消去されるということはない。〈暗い部屋〉の輪郭は、局所的な空間体験のずれによって常に感知されうる(たとえば天井裏は外観と内観の「ずれ」として日々無意識のうちに感知される)。人間はすぐに慣れてしまう。建築はやがて透明な環境と化し、意識の対象ではなくなる。しかし〈暗い部屋〉は、日常的な知覚・経験の対象ではないがゆえに、慣れへの抵抗の拠点となる。さらに重要なのは、その領域が元来、種々雑多な非人間(虫、鼠、カビ、埃等)が住まう場であるということだ。私たちの意識が〈暗い部屋〉に入り込むとき、私たちは人間中心的なパースペクティブを、仮設的に逸脱しなくてはいけない。

4-3 植物図鑑としての建築

改めて確認するが、中平的なアナーキズムの実現に向けて建築において乗り越えるべきは、〈私〉のパースペクティブの単一性を前提にしたときに生じる、カテゴリー把握における一方向的な力動的緊張関係だった。「全体→部分」という近代建築が目指した透明性を否定し、「部分→全体」という経験の複数性を開くこと。そのために建築家がなすべきは、「全体」のありようを明確に宣言しながら、それと同時に、人間のパースペクティブに回収されない領域──〈暗い部屋〉──を、意図的に、戦略的に計画することである[21]。

それは機能的に不要な空間を単に残す、ということでは決してない。構造的・環境的に人間の住空間を下支えする〈暗い部屋〉は、むしろ極度に機能的な空間なのである。重要なのは、それが全体のなかでどのように位置づけられるか、あるいは位置づけられないか、だ。中平の《Documentary》では、「視線のないもの」(質感としての写真)と「視線のあるもの」(眼を備えた対象)を併置することで、観賞者は両者のあいだを往来し、パースペクティブの交換を経験した。中平が(おそらく直感的に)実装したのは、「没入」と「反-没入」の同時性という形式だった。建築における〈暗い部屋〉は、反-没入をもたらす〈眼〉に相当する。天井裏の気配、壁の向こうの湿気、床下を走る小動物の気配──かつての日本家屋にあった、〈暗い部屋〉の名指しえぬ他者性、それによって生じる、非人間的な諸力の不気味な現前。かつてはそれは建築が必然的に孕む副産物であった。しかし現代建築は、まさにこうした不確定な領域を徹底的に排除することで発展してきた。「かつての不気味さ」に立ち返る必要はない。しかしアナーキスト的建築家であろうとするならば、建築家は〈暗い部屋〉に代わる何かを、新たに発明しなくてはいけない。

人間と非人間のパースペクティブを、混合させることなく同居させること。中心なき全体において、両者を並置すること。中平はそれを、制度化された日常性への抵抗として、あるいはイデオロギーによる感性の統御からの解放として、写真において実践した。建築家がアナーキストたりうるとすれば、権力による都市の破壊に対抗する「われわれの側からの都市の解体・破壊」を、空間の設計という具体的な実践のなかで問い続けるときだ。その解体は、物理的な破壊ではない。それは、近代が構築してきた一元的な空間認識を内側から撹乱し、複数のパースペクティブが併存しうる場を、ミクロな日常のなかに埋め込むことである。「植物図鑑」としての建築は、まずはそこからはじまる。

1 中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」, 『近代建築』, pp.37-38, 1974.6

2 岡崎乾二郎『抽象の力』, 亜紀書房, p.274, 2018

3 中平卓馬「記録という幻影」, 『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.73, 2007(初版: 晶文社, 1973.2)

4 中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」, p.38

5 中平卓馬「記録という幻影」, pp.66-67.

6 カストリアディス「自律からの後退: 一般化された順応主義の時代」, 『細分化された世界』, 右京頼三訳, 法政大学出版局, 1995

7 中平卓馬「まち──見ることの遠近法」, 『決闘写真論』, 朝日新聞社, pp.77-80, 1995(初版: 朝日新聞社, 1977)

8 フランツ・K・プリチャード「都市氾濫の図鑑──中平卓馬の写真的思考と実践」, 倉石信乃訳, 『氾濫』, Case Publishing, 2018

9 中平卓馬「植物図鑑」, 『朝日ジャーナル 1978年8月20・27日合併号』

10 中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」, 『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』, 筑摩書房, p.p.19-20, 2007(初版: 晶文社, 1973.2)

11 多木浩二「来るべき言葉のために──中平卓馬の写真集」, 『写真論集成』, 岩波書店, 2003

12 中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」, p.28

13 Ibid., p.31

14 Ibid., pp.34-35

15 倉石信乃「人と動物 後期中平卓馬の写真」, 『沖縄』, Rat Hole Gallery, 2017

16 中平卓馬「都市への視線あるいは都市からの視線」, 『決闘写真論』, pp.12-13.

17 中平卓馬『Documentary』, Akio Nagasawa Publishing, 2011

18 清水穣「連載 逸脱写真論3 日々是写真――中平卓馬の写真2」, 『写真空間3』, 青土社, p.172, 2009

19 筆者のこうした認識は精神病理学を専門とする安永浩に依拠している。以下の著作などを参照。

安永浩『ファントム空間論』, 金剛出版, p.31, 2014

20 中平卓馬「アナーキストは建築家になり得るか?」, p.38

21 〈暗い部屋〉をただ実装するだけではおそらくうまくいかない、というのが僕の直感だ。全体のありようを転倒させる部分をつくるにしろ、そもそも部分と全体のフィードバックループをつくるためには「全体」(仮)を提示しておく必要がある。できるだけわかりやすく、明快に。

Previous
Previous

重力と歴史

Next
Next

Supplementary Notes for In-Between