ベッドルーム・ポリティクス

初出:東京都美術館「都市のみる夢」展カタログ(2021年)/「群島──抵抗する準拠点」より改題

-

思いのほか多くの人々が集まっていることに少しばかり驚きながら、新しくオープンした上野駅の公園口から上野公園に向かって歩いていた。春ごろになると訪れる、このあたりの敬遠したくなるほどの人の密集を懐かしみながら、少しずつ都市空間が以前の様相を取り戻しつつあるのかな、と考えていると、だんだんと、木々の隙間から赤茶色が見えてくる。上野公園と調和するよう低く抑えられた外観は、せっ器質タイルの打ち込み仕上げ。気づいたら足元の舗装も、外壁と同じく、せっ器質のタイルへと切り替わっている。高さ制限をクリアしつつ必要な面積を確保するためだろう、ロビーは地上から一層下がったところにあり、展示室はそのさらに地下へと、ぐぐっと押し込まれている。拍子抜けするほどゆったりと進むエスカレーターに乗っていると、少しずつ公園の喧騒が遠くなっていくのがわかる。ほの暗い空間に身体がすいこまれていく。地下3階。展示室の床はせっ器質タイルのままだ。どこか遠いところにきてしまったような気がするけれど、足元から跳ね返ってくる感触は、この場所が数分前の都市空間と確かに連続していることを教えてくれる。

展示室の外からまず見えてくるのは、ビニールカーテンに赤いカラースプレーで書かれた「広告募集」の文字だ。デモ隊が掲げるプラカードのように、明確なメッセージをラフな仕方で描いた中島りかの《空白2020》というこの作品は、赤という色彩もあいまって、アナーキストによって占拠された都市空間を想起させる。が、展示室に足を踏み入れて左を向くと、どこか安堵をもたらしてくれるような(と同時にどこか不安も感じさせるような)緑色の光が目に飛び込んでくる。この色彩のおだやかな印象は、社会的に形成された意味というよりも、直前に経験した《空白2020》の赤がもつ暴力的なイメージとの対照によってもたらされるものだろう。対となる二項が互いに互いを条件づけるという関係は、本展の主題ともいえるパブリック/プライベートという二分法でも同様である。

薄暗い展示室にはベッドを模した什器が5台レイアウトされ、展示室全体にプライベートな雰囲気をまとわせている。家具は身体がとりうる行動を構造化する一種の道具だから、ベッドは自ずと横たわる身体とその周囲の私的な領域をほのめかす。什器のまわりには多数の物品=記号が配置され、さまざまな場面が一種の夢として提示されている。

展示空間に決定的な仕方で作用しているのは、展示室中央に配置されたミズタニタマミの《団結と一致》という作品だ。「1」の目しかもたないおびただしい数のサイコロキャラメルの箱が、4本の柱と儀礼的かつ幾何学的な緊張関係を取り結びながら、四角錐という安定した形態で積み上げられている。入り口方面からはわからないが、ぐるっとまわると、その背面がぼろぼろと崩壊していることに気がつく。その内部では、床置きのディスプレイが日の丸の旗を踏みつける雑踏を映している。たんなるサイコロの目だったものは、直ちに日の丸の旗へと見え方を変える。そしてサイコロの目は文字通りの眼として、国民の固着した「まなざし」を暗示する。

強固な四角錐の「崩れ」は、戦後の象徴天皇制における主体性を欠いた国民の視線の束と、それと背中合わせの都市空間における儀礼的な無関心さを、外構からなめらかに連続するせっ器質のペイヴメントの上に設置=インストールし、観賞者の定点をパブリックなモードへと再設定する。日の丸のピラミッドと雑踏の映像は、「ここ」が公的な領域なのだと、地面の硬い感触とともに、我々に問うてくる。

象徴天皇制や都市の雑踏、オリンピックによって代表=表象されるパブリックな問題系と、ベッドが指示するプライベートな問題系は、媒介となるコモンスペースなしに、直接対峙しているように見える。なるほど、公的な領域の“海”に対して、私的な領域があたかも“島”のように布置されている、ということだろうか。おそらく、この見立ては半分正解だが、半分不正解だ。なぜなら本展が提示しているのは、パブリックとプライベートのこうした対置関係の、反転可能性なのだから。

都市は自らの統一性をなんらかの仕方で継続的に演じている。都市の名は、複数の異なるレベルの局所的な現実を、私的な領域での習慣を、社会的な文脈でのしきたりを、公的な場面での規約や規則を固有名の元に束ねあげ、諸々の行為や活動の配分を規制する。わたしたちが日ごろ関与している環境は自然環境のような有機的かつ普遍的な構造ではなく、絶えず変化し続ける産業資本主義に裏打ちされた都市環境であり、そこでは商品・装置・イメージが絶えず生産され、集積し、循環しつつ廃棄され、瓦礫の山となった環境である。こうしたあまりにも複雑で入り組んだ状況を引き受けて何らかの政治的異議申し立てをおこなうことは困難を極める。だからこそ、ホワイトキューブという「解放区」が芸術家には用意されていたはずだ。しかし本展の作家たちは、お膳立てされた安全な場所をみずから解体し、別の仕方での制作の方法と、その開示の形式を模索する。

ハンナ・アレントが『人間の条件』で基底としているのは、古代の都市国家を範とした、公的領域と私的領域の断固とした区別である。ギリシア人にとって政治(ポリティクス)とは公共の利益のための意思決定能力であり、ポリスに由来するものだった(その逆ではないことに注意しよう)。

ポリスというのは、ある一定の物理的場所を占める都市=国家ではない。むしろ、それは、共に活動し、共に語ることから生まれる人びとの組織である。そして、このポリスの真の空間は、共に行動し、共に語るということの目的のために共生する人びとの間に生まれるのであって、それらの人びとが、たまたまどこにいるかということとは無関係である。[1]

「家」(オイコス)は、公的な領域であるポリスとは明確に区別された。家政(オイコノミア)は経済(エコノミー)の語源だが、これは家を経営する技術、すなわち家父長による住居内部の財=諸事物の成り行きの統治を意味していた。このとき、法の概念であるノモスはきわめて重要なものとなる。ノモスは多数の人間が自由に動き回れる政治的領域をその内側に確保するための「城壁」であり、公と私の区別そのものだったからだ。重要なことは結びつきや連携の形成ではなく、境界を設定し、定義された空間形態のなかで政治的行為をフレーム化し、経済=家政の論理によって支配される私的な領域と、政治的な活動の場である公的な領域を明確に分けることだった。

産業資本主義の物質基盤に裏打ちされた近代都市で展開したのは、家政=経済の原理にもとづく全体主義的な管理プロセスである。人間と人間を結びつける根本的な場は、「家」から分離された政治的な空間ではなく、家政=経済的空間へと移行した。都市は生産-流通-消費の網の目が張り巡らされたドメスティックな空間として、ひとつの「家」として存在することになる。

都市化の海にただよう私たちにとって、公的な領域と私的な領域の新たな“分離”の形式を模索することは、人間に不寛容な市場の原理に抗し、政治的な活動の空間を都市に出現させるためのひとつの道筋になるだろう。だが、東京ほどパブリック/プライベートの分別が困難な都市はないかもしれない。たとえばアンリ・ルフェーブルは、日本の都市空間では公的領域(寺院や政治と行政の建物など)と私的領域(家屋やアパートなどの居住空間)、そして両者をつなぐ移動のための領域(なんらかの工程や移動、商取引の場)が、各々に入り口・中心点・避難場を備えているという入れ子状の構造を指摘している[2]。こうした空間的な構造は「日本的」と呼ばれるような、日本の伝統的な生活文化に内在していた仕組み──ハレとケ、オモテとウラ、ホンネとタテマエなどの二分法を異なるスケールでパラレルに展開すること──を反映している。身分制社会それ自体は近代に入ると崩壊してしまうが、それと直結する空間構成は、資本主義とうまく折り合いをつけながら都市空間に残存し、裏へ裏へと深まっていく都市経験の面白さへとつながっていった。都市化が生む空間的な無秩序さと日本の伝統的な空間構成がもっていた秩序は奇妙に同居したのだ。こうした空間的な面白さは、私的領域への公的領域の食い込み(日々の生活への権力の浸透)と避けがたく結びついているから、おいそれと言祝ぐことはできないのだが。これに加えて、多木浩二が指摘しているように、明治以降の「家」の国家への拡大に併せて、天皇制政治の論理と伝統的な家族主義は計画的に結び付けられて、天皇への眼差しと家父長を見る伝統的な眼差しが重なり合った、という日本特有の状況を指摘することもできるだろう[3]

美術館の外側から連続するパブリックな空間に対して、プライベートな領域(ベッドルーム)が群島状に布置されている。タイルの床、ベッド型の什器、《空白2020》、《団結と一致》、という展示冒頭の経験から直感的に想像したのは、こうしたパブリック(=海)とプライベート(=島)の対立関係であった。しかし、日の丸と雑踏の背中合わせの状況を可視化した《団結と一致》の展示室中央への設置=インストールは、都市の公共的ではない性格をあぶり出すことで、こうした群島状の見取り図を鮮やかに反転してみせる。つまり、東京の都市空間は決して公的な領域ではなく、むしろ家政=経済的な原則によって、「家」の論理によって支配されているのだ、と。むしろ本展の展示空間が立ち上げているのは、広範に及ぶ私的領域のなかに、政治的な抵抗の拠点が孤立して分布している、というパースペクティヴである。このとき、ベッドルームはミニマムなポリスとなる。

しかし、夢は究極的な「ひとり空間」である。と同時に、アレントが「政治は人間の複数性(plurality)という事実に基づいている」[4] と書くように、政治的な活動と複数性は分かち難い。ゆえに、この反転したパースペクティヴを引き受けるならば、作品という単独性に「複数であること」が実装されなければいけない。

ミズタニの《ゆめの中継;状況の上書き1》は新国立競技場の周辺の地政学的な緊張関係を題材にしている。巨大な資本が動き、土地が占拠され、実際に建設がおこなわれるその周縁で生きる5人の架空の登場人物をミズタニ自身が演じわける、というドキュメンタリー風の作品だ。新国立競技場という巨大な建築物が建設されるために必要なことは、とりもなおさず多数の人間の承認であり、その意味でこの建物は「公」の定点を社会にフィックスする物質的基盤として機能する、はずだ。しかしその周囲には、承認されないままの、あるいは承認に対して無関心な人々の、広大な領域が取り残されている。注目すべきは、ここでは実際に複数の人間のあいだで議論が交わされるのではなく、ひとりの人間の閉じた制作空間(ベッドルーム)において、各々に現実的な問題を抱えた複数の主体が演じわけられている、ということである。ミズタニの「ひとり芝居」は、こうした未だ承認しえない複数の視点を自身の身体を通して浮かび上がらせる「公共性の上演」である。

中島の《なぜ何かがあるのではなく何もないのか》においても、制作者の身体は分裂・複数化している。スマートフォンを用いて地図を操作する映像ではスワイプやピンチといった操作が強調され、メモアプリに文字を打ち込んでいく映像もまた、人間がテキストを生成する際の微妙な時間の進行のあり方が記録されている。脱ぎ捨てられた衣服も、絵の具を塗る身振りも、同様の効果をもっている。皇居前広場を彷彿とさせる緑を基調に配置されているのは、制作者の身体から分岐した複数の人間の身振りであり、その痕跡だ。

緑と塀に守られた、「禁忌」であると同時に、日常的な都市生活においてはことのほか「どうでもいい」(たんなる緑である)存在であるかつての江戸城、すなわち皇居を、ロラン・バルトは空虚な中心だという。『表徴の帝国』の白眉は、こうした都市スケールの空虚さが「梱包箱の作りの丁寧さ」という世俗的かつスケールの小さな物品のありようと類比されていることだ。

幾何学的であって厳密にデッサンされているくせに、しかもどこかしらにつねに折り目とか結び目がつけられていて、同時に、製作の配慮、技術、ボール紙と板と紙とリボンの遊びなどによって非対称的となっている日本の包みは、運ばれる品物の一時的な飾りではなくて、もはや包みそれ自体が品物の一時的な飾りではなくて、もはや包みそれ自体が品物なのである。包装紙そのものが、無料だがしかし貴重なものとして聖化されている。包みが一個の思想なのである。[5]

「包み」のなかにはつねに、小さくてコンパクトな、ときには空虚でさえある「なかみ」が入っている。それらは包みの精緻さ、物としての作り込みの過剰さに比して、存在感が相対的に弱い(ことが多い)。結果として前面に出てくるのは包みの物性である。梱包箱の作りの丁寧さは、包まれた贈り物を代理=表象するたんなるサイン(表徴)であることを超えて、それ自体がひとつの思想となる。

《なぜ何かがあるのではなく何もないのか》が強調するのもやはり、「なかみ」というよりは「包み」──内容というよりは、身体を用いた行為(=身振り)そのもの──のほうである。その態度は、皇居という場所の特異性を模倣することで、「別の空虚」をここに仮設しようとしているように見える。中島は自らの行為が生み出した空白に、香港のデモの映像をはさみこむ。遠く離れた土地でおこなわれている政治的な抵抗運動に対して、そっと場所を与えるように。

 デモやボイコット、ストライキというかたちで公的な領域をなんらかのかたちで占有(occupy)することは、既存の制度や勢力によって「公」が無批判に措定されること──それはつまるところ、政治的な決定に介入しうる人民の領域確定である──への抵抗だ。

諸身体が該当や広場あるいは他のタイプの(仮想空間も含めた)公共空間に集合するとき、それら諸身体は複数的で行為遂行的な現れの権利、身体を政治的な領域の直中で行使し、その直中に置く権利を行使しており、その権利は、その表現的で意味形成的な機能において、不安定性という誘導された諸形式によってもはや苦しめられることのない、より生存可能な一連の経済的、社会的、政治的諸条件のための身体的要求を伝えるものである。[6]

抵抗者たちは、自らの身体を酷使し、集合し、行為することで、既存の都市空間にポリス的な領域(共に活動し、共に語るための閉域)を瞬間的に生起させ、彼/彼女らのポリティクスを実現しようとする。本展の空間構成および諸作品の形式は、都市空間で実践される抵抗運動とほとんど地続きのものであるように、私には思えた。複数の通約不可能な価値基準の合流と葛藤を可能にする「空白」を立ち上げること。「作品」はこのとき、抵抗者たちの仮留めの準拠点となるだろう。

1 ハンナ・アレント『人間の条件』(志水速雄訳、筑摩書房、1994年)、320頁。

2 アンリ・ルフェーヴル『空間の生産』(斎藤日出治訳、青木書店、2000年)、232-239頁。

3 多木浩二『天皇の肖像』(岩波書店、2002年)、187-188頁。

4 ハンナ・アレント『政治の約束』(ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳、2018年)、181頁。

5 ロラン・バルト『表徴の帝国』(宗左近訳、ちくま学芸文庫、1996年)、74頁。

6 ジュディス・バトラー『アセンブリ ―行為遂行性・複数性・政治―』(佐藤嘉幸・清水知子訳、青土社、2018年)、18頁。

Previous
Previous

私性の最後の領土

Next
Next

多木浩二の写真について